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2016年12月18日日曜日

フィデル・カストロ議長の死を悼む (終)

キューバを訪問したのは、もう14年も前になりますが、そのころ考えたことはまだ良く覚えています。キューバは社会主義国ですが、ベルリンの壁崩壊後に訪れた旧社会主義国は、未だに人々のメンタリティーは、閉鎖的でシャイでやや暗い印象をもちました。ポーランド、チェコ、旧東ドイツのドレスデン、ジョージア(グルジア)などです。しかし、キューバの社会主義はヨーロッパの社会主義とは比べ物にならないほど明るい雰囲気でした。医療や教育は無料で、人々は幸せそうです。治安はよく、ハバナの街は夜の独り歩きも問題はありませんでした。

フィデル・カストロ国家評議会議長の名刺
しかし一方で、言論の統制はあり、人々がどのような議論も自由にできるかと言えば、必ずしもそうではないように思いました。しかし、主にはフロリダ州に住む、キューバ移民の人達は、キューバ革命の前に資本を持っていた人たちで、カストロに自分たちの財産を奪われたという思いで、現在のキューバ政権を受け入れることができないのだと思いますが、その時代の社会の仕組みが好ましいものであったのかどうかはわかりません。

実際に、現在のアメリカ合衆国もどのような方向に歩んでいくのかは非常に不透明です。

フィデル・カストロ国家評議会が亡くなったことで、キューバの体制は更に変わっていくのだと思いますが、一方で変化していくアメリカ合衆国やヨーロッパとの関係の中で、一体どのようにキューバが自身の位置づけをしていくのか。かつて訪問し貴重な経験をした国の行方に興味があります。

2016年12月8日木曜日

フィデル・カストロ議長の死を悼む (3)


カストロ議長の両脇から、ほぼ交互にキューバ人
日本人が並んでいます。カストロ議長の向こう側に居る
日本人のご婦人は通訳の方で、先日もテレビに出ていた
ように思います。
私が発言しているところですが、
私の発言は失敗でした(本文参照)。
フィデル・カストロ国家評議会議長との会食会は、非常に壮大なスペースで行われました。体育館ほどではないかもしれませんが、その三分の二くらいはある部屋に、カタカナのロの字型に机が置かれ、そこに2-3名に一つづつマイクロフォンがあり、そのマイクロフォンを使って、食事を取りながらおしゃべりをするという趣向です。

席は、日本の代表団のメンバーとキューバ政府のメンバーがだいたい交互に座るような感じになっていたと思います。

会食は、夜の9時ころから始まって、多分終わったのは夜中の2時ころだったのではないでしょうか。キューバの美味しい食事、豚の丸焼きのようなものも出たと思います。

カストロ議長は、南米では良い外交をしているようで、チリの大統領とも仲が良くて、とても美味しいチリワインが手に入ったので、それを今日は皆さんに飲んでいただきましょうということで、頂いた覚えがあります。

マイクロフォンで食事をしながら、会話をするということなのですが、この9時から2時までの5時間のうち、多分8割がたはカストロ議長が話をしていたのではないでしょうか。話は、キューバ革命の時代の話から、現在の小学校教育に至るまで、様々な話がでました。私の印象では、カストロ議長は、キューバ人の父親であると行ってもよいほど、国の中の様々なことを把握しているように思いました。例えば、学校給食では、子どもたちの良い栄養状況のことを考えて、ヨーグルトを出すようにして、それもプレーンだと嫌いな子もいるので、ストロベリーやバナナの味をつけて出しているというようなことを話していました。また、学校には日本製のテレビを入れたのだけれども、日本製のテレビは全く壊れないので、とても素晴らしいとも話していたと思います。

キューバ革命のころの話をしているときに、私と同年代のキューバ政府のかたに、キューバ革命の頃のことを覚えているかと話したところ、まだ幼稚園、小学校低学年だったわけですから、なんとなく覚えているような気はするが、はっきりとした記憶はないと話していました。

キューバの国の政策や歴史に、責任をもってコメントできないのですが、当時のカストロ政権では、カストロと同年代の政治家はほぼ失脚し、若い世代が政治を担うようになっていたと聞いたように記憶しています。

このような話の中で、カストロ議長はそれなりにラディカルなことも話していました。ひとりひとりの日本人メンバーの自己紹介をするなかで、私の番が来て、精神科の医者で、睡眠の研究をしているというようなことを話しました。そうしたところ、カストロ議長は精神科に関連して、犯罪の話になりました。カストロ議長は犯罪者というのはどのような社会体制で、人々の暮らしを良くしても出てくる。これは、遺伝的な背景も絡んでいるということも考えられるので、研究が進めばこういった遺伝子を調べて犯罪をおかす前に隔離することも大切ではないかと言われました。私は、ここで、「遺伝的な背景がそうであっても、教育など環境的な要因によって、必ずしも誤った行動をするとは限らないので、その前に隔離をするといのは、人権上も、日本ではできないだろう。」と答えました。この、「人権」というところが、カストロ議長としては、聞き逃せなかったところであったようで、その後、約1時間近く、この点について、社会的正義との結びつきについて演説されました。私は、なにか、1時間近くカストロ議長に叱られているような感じでした。そのうえ、場の雰囲気を壊してしまったような気もしてあまり適当な話でなかったなと反省もしました。

そんなことも有りましたが、しかし、非常に価値のある経験だったと思います。今から考えると、本当に懐かしい思い出です。  (つづく)

2016年12月3日土曜日

フィデル・カストロ議長の死を悼む (2)

フィデル・カストロ議長との握手
カストロの評価はいろいろと分かれますが、
彼と握手をしたという経験は
やはり記帳なものだと思っています。
到着した革命宮殿は、立派な建物でしたが一体どこにあったのかはよくわかりません。(革命宮殿という言葉は、正式なことがかどうかはよくわからないのですが、そのように日本人の間では呼んでいたと覚えているので、そう書いています。また、Google検索などで調べると、最近はオバマ米国大統領が革命宮殿でフィデル・カストロの弟であるラウル・カストロと面会したということが書かれているので、革命宮殿という名前もそういった建物もあるようですが、地図上ではっきり見つけられませんでした。)チェ・ゲバラの絵の付いた、革命広場の前を通った覚えはあるのですが、どのように通ったのか覚えていません。

革命宮殿のセキュリティーは非常に厳重でした。我々は日本からの公式の訪問団だったので、それでも比較的緩やかだったのだと思いますが、持ち物は全て出すように言われました。そして、持ち物は自分たちとは別の方向に運ばれ、我々はセキュリティーチェックを受けて、建物の中に入るという具合です。中で、持ち物は返してもらえます。

部屋に通され、そこで飲み物などを飲んでいると、いよいよカストロ議長が現れました。本当に胸の高鳴る瞬間でした。カストロ議長は、背の高いガッチリした老人でした。私がお会いしたときは、70代でしたが、現役で執務をこなしており、非常に健康そうでした。

一通りの挨拶が終わったあと、一人ひとりと握手をし、写真はキューバ政府の担当者が撮影いたしました。このときに頂いた写真がこれです。

このあと、少し歓談した後に、午後9時ころに着席の夕食をとりながら、訪問団とキューバ政府関係者との懇談が行われました。

(つづく)

2016年11月26日土曜日

フィデル・カストロ議長の死を悼む (1)

以前キューバ訪問のエントリーを書きました。2002年の12月にキューバに行った時の話です。その中ではまだ触れていませんでしたが、フィデル・カストロ議長に面会するチャンスを得ました。そのことをすこし書いてみたいと思います。

私は自分でこの面会をアレンジしたわけではないので、これはすべて聞き伝いの話ですが、安部総理のような訪問は別として、一般にはカストロ議長にアポイントメントを取ることはできないようです。私が、キューバに行ったのは、日本キューバ経済懇話会の科学技術部会担当者として行くように言われたのですが、これは以前のエントリーに書いたように、キューバ神経科学研究所のペドロ・バルデス所長との交流によるものからでした。

フィデル・カストロ議長との懇談の場で
2002年、もう14年前ですが、自分も若いですね
キューバについて、様々な施設を訪問し、他の訪問団の面々は経済面での交流を試みたわけですが、私は主にはキューバ神経科学研究所を訪問したり、私自身の調査対象である、ハバナ市内の精神科のディケア施設などを訪問したり、またスポーツ科学の研究施設を訪問したりしていました。

ある日、もしからしたらカストロ議長に会えるかもしれないという噂が訪問団に流れました。この噂は、一体どこから来たものかは不明なのですが、不確かだがそうらしいということでした。しかし、だからといって、いつどこに集まるということは特に指示はありませんでした。例によって、私が神経科学研究所を訪問していると、研究所の面々から、「お前はフィデルに会うんだろう。」と言われました。私は、「噂だろう。」と笑って話しましたが、彼らは、もしあったら神経科学の研究もよくやっていると言っておいてくれと話されました。

キューバはご存知のように社会主義国ですが、メンタリティーは明るいです。また、国家の施設のトップの人達は、ファミリーのように交流があるようにも思えました。ただ、所長のペドロ・バルデスは、長いことフィデルとは話をしていないなぁと言っていたので、そんなに頻繁に出会うわけでもなさそうでした。

そんな中で、急に電話があり、すぐホテルに戻るようにと言う招集がかかりました。目的は分かりませんが、すぐ帰れということです。帰ったところ、バスが何時にロビー前に来るからそれに間に合うように準備をするようにということでした。はっきりとした指示はないのですが、噂で、どうやら「革命宮殿」に行くようだということでした。私は、スーツに着替えて集合時刻に間に合うようにロビーに集合しました。

バスに乗り込み、そしてはっきりと革命宮殿に行くと情報が入りました。いよいよフィデル・カストロ議長に面会ができるようです。胸が高鳴るのを感じました(つづく)。

2015年1月28日水曜日

2002年キューバ訪問 (1) 訪問の経緯

現在、オバマ政権がキューバとの国交に熱心です。実は、私はキューバに行ったことが有ります。あれは、たしか2002年の12月だったと思いますが、日本キューバ経済懇話会の一員としてキューバを訪れました。今から12年も前のことです。

私はその頃、東京都精神医学総合研究所に勤務していましたが、その時にキューバ神経科学センターのペドロ・バルデス教授と交流が有りました。このペドロ・バルデス教授は、脳波の周波数分析などについても研究をしていました。彼は、数理統計解析の関連で、国立統計数理研究所(統数研)との共同研究もしていました。そして、私も統数研と共同研究をしていて、その関係でつながりが出来たというわけです。

空から見た ハバナの郊外


経済懇話会は、日本とキューバとの経済的なつながりを促進する団体ですが、そこから科学技術に関連のある人にも訪問団として参加して欲しいという要請があり、私自身もキューバに行ってみたいと思って、参加することになりました。

キューバは遠い国です。直行便はありません。アメリカとは距離的には近いですが、直行の飛行機はないので、 成田⇒ロサンゼルス⇒メキシコシティー⇒ハバナ というふうに行った覚えがあります。メキシコシティーで一泊し、翌日の便でハバナ入りをしました。その時は、たしかプロペラ機で、キューバが見えてきて着陸する際には、うまく着陸できるか心配だった気がします。

オバマ政権のキューバが以降の進展などを見ながら、少しこの時のことも書いてみたいと思っています。