2016年12月8日木曜日

フィデル・カストロ議長の死を悼む (3)


カストロ議長の両脇から、ほぼ交互にキューバ人
日本人が並んでいます。カストロ議長の向こう側に居る
日本人のご婦人は通訳の方で、先日もテレビに出ていた
ように思います。
私が発言しているところですが、
私の発言は失敗でした(本文参照)。
フィデル・カストロ国家評議会議長との会食会は、非常に壮大なスペースで行われました。体育館ほどではないかもしれませんが、その三分の二くらいはある部屋に、カタカナのロの字型に机が置かれ、そこに2-3名に一つづつマイクロフォンがあり、そのマイクロフォンを使って、食事を取りながらおしゃべりをするという趣向です。

席は、日本の代表団のメンバーとキューバ政府のメンバーがだいたい交互に座るような感じになっていたと思います。

会食は、夜の9時ころから始まって、多分終わったのは夜中の2時ころだったのではないでしょうか。キューバの美味しい食事、豚の丸焼きのようなものも出たと思います。

カストロ議長は、南米では良い外交をしているようで、チリの大統領とも仲が良くて、とても美味しいチリワインが手に入ったので、それを今日は皆さんに飲んでいただきましょうということで、頂いた覚えがあります。

マイクロフォンで食事をしながら、会話をするということなのですが、この9時から2時までの5時間のうち、多分8割がたはカストロ議長が話をしていたのではないでしょうか。話は、キューバ革命の時代の話から、現在の小学校教育に至るまで、様々な話がでました。私の印象では、カストロ議長は、キューバ人の父親であると行ってもよいほど、国の中の様々なことを把握しているように思いました。例えば、学校給食では、子どもたちの良い栄養状況のことを考えて、ヨーグルトを出すようにして、それもプレーンだと嫌いな子もいるので、ストロベリーやバナナの味をつけて出しているというようなことを話していました。また、学校には日本製のテレビを入れたのだけれども、日本製のテレビは全く壊れないので、とても素晴らしいとも話していたと思います。

キューバ革命のころの話をしているときに、私と同年代のキューバ政府のかたに、キューバ革命の頃のことを覚えているかと話したところ、まだ幼稚園、小学校低学年だったわけですから、なんとなく覚えているような気はするが、はっきりとした記憶はないと話していました。

キューバの国の政策や歴史に、責任をもってコメントできないのですが、当時のカストロ政権では、カストロと同年代の政治家はほぼ失脚し、若い世代が政治を担うようになっていたと聞いたように記憶しています。

このような話の中で、カストロ議長はそれなりにラディカルなことも話していました。ひとりひとりの日本人メンバーの自己紹介をするなかで、私の番が来て、精神科の医者で、睡眠の研究をしているというようなことを話しました。そうしたところ、カストロ議長は精神科に関連して、犯罪の話になりました。カストロ議長は犯罪者というのはどのような社会体制で、人々の暮らしを良くしても出てくる。これは、遺伝的な背景も絡んでいるということも考えられるので、研究が進めばこういった遺伝子を調べて犯罪をおかす前に隔離することも大切ではないかと言われました。私は、ここで、「遺伝的な背景がそうであっても、教育など環境的な要因によって、必ずしも誤った行動をするとは限らないので、その前に隔離をするといのは、人権上も、日本ではできないだろう。」と答えました。この、「人権」というところが、カストロ議長としては、聞き逃せなかったところであったようで、その後、約1時間近く、この点について、社会的正義との結びつきについて演説されました。私は、なにか、1時間近くカストロ議長に叱られているような感じでした。そのうえ、場の雰囲気を壊してしまったような気もしてあまり適当な話でなかったなと反省もしました。

そんなことも有りましたが、しかし、非常に価値のある経験だったと思います。今から考えると、本当に懐かしい思い出です。  (つづく)

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