2014年4月8日火曜日

グルジア科学アカデミー外国人会員

研究をしていると、世界中のいろいろな人と知り合うことができて楽しいです。私も様々な国を訪問しましたが、グルジアとのつながりができたのは、ちょっと驚きでした。1999年に、旧東ドイツのドレスデンで行われた、世界睡眠学会の学術集会で発表したのですが、その際の抄録集に私の名前を見つけた、グルジアの研究者がその後連絡をしてきました。その内容は、研究費に応募したいというものです。この研究費は、旧ソ連邦の科学技術の発展を助けるのが目的で、アメリカ合衆国、EU、そして日本が出資しています。ロシアとともに、旧ソ連邦にあった国は、この研究費に応募できるのですが、その際には、出資国に共同研究者を作らなければなりません。

グルジアの睡眠研究者は、この研究費に応募するために、日本で似たような研究をしている研究者を、ドレスデンでの学会の抄録集から探したようです。そして、私のところにメールが来ました。共同研究者になってほしいということです。確か2000年初めのことです。突然のメールで驚きましたが、内容については理解できるものでありましたし、ぜひ協力したいと思い承諾しました。その後、一ヶ月くらいして、これまた突然外務省があら電話がかかってきました。このような申請があるか、承諾しているのかという確認の電話です。承諾していることを告げると、申請は多分大丈夫だろうというような話をしていたように覚えています。その際に、私の役割について聞いたのですが、きちんと相手方が研究をしているのか、定期的に審査をしてほしいということでした。また必要がああれば、グルジアを訪問して、研究の進捗を確認することも可能だという説明でした。外務省のお金で、グルジアを訪問できるのは非常にありがたいので、ぜひ訪問したいとお話した覚えがあります。

研究はその後順調に進み、翌年の9月にグルジアを訪問しようと思いました。ところが、そこで、アメリカ同時多発テロ事件が起きたのです。家族は、こんな時に海外に行くなと言いますし、私も、これはやめたほうが良さそうだと思い、グルジアに行くのはやめました。同時多発テロの他にも、グルジアはウクライナと同様に、旧ロシアとは対立関係にあり、非常に安定しているとはいえないという事情もありました。私自身は、現地の研究者が居るので、安心だろうとも思ったのですが、その時はやめました。

その後、グルジアの研究者とは、アメリカやアジアの学会で合う機会はあり、交流は深めました。しかし、なかなかグルジアには行く機会がなかったのです。2003年に早稲田大学に、移動し、その後学生とヨーロッパスポーツ科学会などにも参加するようになりました。そして、2010年トルコのAntalyaで学会が会った際、その前にグルジアを訪問することが出来ました。その時の写真です。


グルジアは、小さな国です。黒海の東側に位置していて、首都はトビリシ。コーカサスの長寿国としても有名です。また、柔道やレスリングも盛んです。実は、このつながりを利用して、オリンピック候補の選手のグルジアでの出稽古先を探したこともありました。

経済は、まだまだです。この写真は国立ベリタシビリ生理学研究所の前でとった写真ですが、研究所も、必ずしも非常に良い機材が備わっているとも言えませんでした。しかし、人々は非常に親切で、自分たちの国を自分たちで作っていこうという気概が感じられました。こういう、中央アジアに近い国に行くと、言語、宗教、分化が民族を作り、その民族がひとつの土地を守っていこうという現実が、身を持って体験できます。グルジア語は、旧ソ連邦の時にも国の言語として守られたということでした。自分たちの土地を決して人に渡さないという気概は、訪問中も強く感じられました。

この国は、シルクロードの経由地でもあります。そういったことで、例えば、食事などでも、小籠包のような食べ物がグルジアの食べ物としてあります。ヒンカリという名前の食べ物ですが、非常に美味しいです。この専門店にも連れ行って頂いて、たくさん食べました。



このようなことで、私はグルジア科学アカデミーの外国人会員のさせていただいたわけです。

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